教育相談室のカウンセリング事業について
前回の記事のように、スクールソーシャルワーカーの勧めで、息子にカウンセリングをうけさせることにしました。
私(母)はとくに必要ないですっていっていたのですが、あちらとしては母の精神状態もケアしないとという思いがあったらしく、じゃぁお話するだけでもってことで月1くらいで利用。息子は月2利用のカウンセリングがはじまりました。
それが3月。1年生の終わりからはじまりました。
私と離れることに不安がある息子は、最初とても不安そうでしたが、45分間だけ、やさしそうなお姉さんとこのお部屋で遊ぶだけ、ママはこっちのお部屋でお話するから待っててねって感じで、なきそうになったりどうしても会いたくなったらこっちの部屋きていいからねっていういろいろ全然大丈夫だよっていう話をつけたうえで、別室へ。
不安そうでしたが、そこはまわりはプロ。不安を解消する言葉をかけ配慮し、無理をさせずってかんじでした。息子も「ママがお話する時間だから」と、自分のカウンセリングだなんてつゆとも知らず(わかってない)、まずは45分別々で過ごすという練習から始めるという感じでした。
そのへん息子は聞き分けがいいので、最初からお利巧な態度で別室待機をおこなってくれました。カウンセリングといっても、特になにをするわけでもなく、別室でオネエサンカウンセラーさんとお人形やおもちゃで遊んでたそうです。
担当のお姉さんカウンセラーさんと打ち解けるのには数カ月から何年もかかるものだからそこは気長にと言われました。
なにがわかるんだ?なにがカウンセリングなんだ?と思って、最初はよくわからず私も通っていました。私のカウンセリングというと、まぁ雑談。
雑談を通していろいろ情報を集めて分析してくださっていたのだと思います。
とりあえずは別室で過ごす練習、行動認知からはじめたというスタートでした。
スクールソーシャルワーカを利用する
学校に行ったり行かなかったりの2学期。
行ったとしても親子で別室にこもる。ずっと一緒。
そんな生活がつづくもんだから、相談員さんやあちらがわからしたら、母親である私の精神もかなり心配だったらしい。いつも「いやぁこまりましたよねぇ」なんてわらってたんですが、複数円形脱毛とか起こしてたらそら心配になりますわよね。
申し訳ないなぁって思いながらも、すごい親身に心配してくれたのを覚えている。
2学期の終わりごろから担任経由でスクールソーシャルワーカの話を聞いた。
利用してはどうですか?という校長の提案らしい。
"スクールソーシャルワーカとは、不登校やいじめなど、学校で困りごとやつらさを抱えているお子さんやご家族を支えるための専門職です。教育分野の知識だけではなく、社会福祉の制度やサービスを理解しており、多くは「社会福祉士」や「精神保健福祉士」の資格を持っています。"
とのことで、校長などの管理職の先生から学校教育支援センターの学校支援係に依頼することで支援を受けることができます。
で、なにをしてくれるのかというと、上の練馬区のリンクにあるように、
"
学校の先生と連携し、困っているお子さんがいきいきと学校生活を送ることができるように手助けをします。
◇ 学校に来られないお子さんの話し相手をしたり、学校に来られるような手だてをいっしょに考えたりしています。
◇ 学校や子ども家庭支援センター、総合福祉事務所、こども発達支援センター、保健相談所等と連携しながら、お子さんやご家族に役立ちそうな医療や福祉、法律の制度等を紹介し、手続きのお手伝いをします。
◇ お子さんやご家族が利用しやすい居場所や施設、ボランティア等を紹介することもあります。
お子さんやご家族の話をよく聞いて、お子さんに笑顔が戻るように活動しています。
"
らしいです。
つかえるもんはなんでもつかっとこうということで、二つ返事でお願いすることにしました。
同意書や面談など、学校側からお話があったのが1年の年末、面談があったのが1月下旬だったかな。2月は特になんの連絡もなく、3月くらいからぼちぼち連絡がくるようになりました。まぁ学校にいいづらいこととか、他の相談センターの紹介とかそういう面の相談はしやすかったです。そして連携も早かったです。
わたしは家庭の状況や私の性格などぜんぜんオープンにしてOKなので、どんどん情報共有してくださいって姿勢でお願いしていました。
そのスクールソーシャルワーカさんにより、教育相談センターのカウンセリングをすすめられました。
はげた
息子が学校行きたくないと言い出してから、そういえば頭皮がヒリヒリしていた。
なんだか薄くなった気がする。周りの人に、「毛薄くなったともおもわない?」なんてよく聞き出したのもこのころ。
9月にはあぁやばいっていうほどはげてきました。そう、円形脱毛です。
なんだかんだ息子が不登校なのがストレスになっていたんでしょうね。
はげはじめたら止まらないw。
一つできただけでもショックだったのに(しかもてっぺん)、なんと複数円形脱毛でした。11月には8つに。500円玉より大きい円形脱毛が8つ。いやもう外あるけませんよw。
でも、息子は調子のいいときはつれていきたいし、会社にも顔をださないとだし、早めのニット帽をかぶってました。学校でもずっとかぶり。会社でもかぶり。
ハゲはすぐ上司に相談。
だからといって公にするわけにもいかないので(ストレス起因だし)。
でも業務中ニット帽かぶってたらさすがに総務に指摘されるわけで。なんか悲しくなって上司に理由きいてくださいと冷たくあしらった気がする。まだこのときははげてますんでって笑顔で答えれるほどではなかった。
見るからにひどくなったので11月から皮膚科通院。きっとストレス性だろうから、休んでくださいよっていわれるもそうはいかないのよお母さんは!w
何回か通院しました。一度目は冷凍処方。幹部をドライアイスで冷やして刺激し、発毛を促すというもの。まぁ効き目なし。
なので次回はステロイド注射。ハゲ8か所に数回ずつ注射をさす。地味に痛いw。いやほんといたかったですw。
ただこれも効果があったかは謎。服薬はなく、ストレスだけ注意してやすめってひたすらいわれました。
とりあえず産毛がはえてくるまで数回通いました。
息子の不登校にも慣れ、いろいろ対応していくにつれて、ストレスも軽減したのか、産毛がはえ、少しずつ回復していきました。もうすぐ2年がたちますが、はげてたなんてわからないです。ただ、あの時期に生えてた部分は傷みがひどく、栄養不足ぽい髪質になっています。
あと、ハゲ全盛期は、ストレスっていうかハゲてることに逆にストレスを感じて、ズラ作りに行きました。フルウィッグには抵抗があったので、部分ウィッグで。
やすいところを探して3万でかってきました。
客先へいくときだけ使用してっていう使い方をしていたので、いまでもきれいにおいています。
会社との付き合い方(フルタイムだったので)
私はシステムエンジニアだ。
フルタイムの会社員。朝10時出社ー19時退社。
でもこの職種の人ならわかるとおもうが、仕事が多い。終わりがない。
早く終われば次の仕事がある。なかなか根つめてしまうと終わらない。
これでは母子分離不安が治るわけもなく、不登校は悪化する。
2学期はじまってから上司と相談し、子連れ出勤の特例をだしてもらった。
ほんと恵まれている。私の仕事環境。今の日本でこんなことまぁない。難しい。
学校に行きたくない日は、学校にいくことを諦めて、仕事につれていっていた。
それならいいらしい。母と一緒だといいらしい。
毎日のようにデスクの横に椅子を用意し、総務のお姉さんには自ら「来ました」と伝え、デスクの横でワークをする。ワークが終われば3DSをする。
騒がない。しゃべらない。たまに鼻歌がでるが。
まったくもって迷惑のメの字もかけないおりこうさんだったので、「きちゃだめ」ともいわれず、「つれてくるな」とも言われなかった。
でもやっぱり陰で、「ずるい」という声はあがっていた。
そういう声は全部上司がすいとってくれていた。
私の普段からのストレスが大きいことを感じていたので、そういう細かいストレスはすべて吸収してくれていた。ほんと恵まれている。
おかげで休んだり遅刻したりしたが、裁量労働制だったこともあり、8時間勤務弱で帰ってもよかったのもある。
部長には今の生活は年末まで許可するがそれ以降はどうするか考えてくれとは言われていた。「わかりません」としか思えなかったが「なんとかします」とも答えた。
いい環境であったが、どうするかの責任は考えなくてはならない。
ない頭でもし不登校が年末までになおらなかった場合を考えておかないいけない。リスク管理だ。部長や社長は多めに見てくれている。だがしかし、部長や社長にも責任がある。他の社員への影響も十二分に考えないといけない立場である。
それでも優しい言葉をかけてくれるのがほんとうにこの会社が素晴らしいとおもったところである。
一切の文句を言わず(特に総務にw)、ゆわれるがままに仕事し、させてもらっていた。ありがたい。
まぁこのときには会社でもニット帽を常にかぶっていた。
知らない総務の女子が「社内では帽子ぬいでください」っていってきたこともあるが、
ちょっと上司とおしてもらえますか?っていった。
はげだしたころはとてもみられるのがいやだったが、はげがなれると、聞かれると見せるようにまではなっていたので私もかなりなおっさんである。
でもやっぱり見た目に痛々しいのでかぶってましたw
母子分離不安とは
いつ誰に言われたか覚えていないが、小1の7月から不登校が始まり、2学期には母子分離不安ではないかと言われ、その言葉を初めて知ったことは覚えている。
不登校が始まったからずっと、「不登校」でググっていたから、どの記事もピンとこず困っていた。
「不登校」で検索すると大体、中学生や高校生の少しお兄さんお姉さんの話が引っ掛かってくる。いやたぶん小1のうちの息子の場合とは、環境だけでなく、気持ちの在り方も何もかも違うっぽい。似た人もいるかもしれないが。
調べてみても「あぁこれだ」っていうのに出会わない。ちょっとうちのこおかしいんじゃないかとかも思い始め、ハゲるはげる。
11月には私は多発性円形脱毛で、500円玉越えのハゲが8か所ありました。
もちろんそのままでは人前をあるくこともできず、常にニット帽w
客先へいくときはズラをつけていきました。そう人生はじめてのズラ。
ウィッグというとおしゃれ度があがりますが、頭部てっぺんだったのでズラのつけごこちがすごいむずかしかったです。。
この話はまた別でw。
そこできいた「母子分離不安」。
しらべると、特に小学生低学年に多い。とかかかれている。あぁこれだ!
原因として以下が書かれていました。
1)母子が過ごす時間がこれまでと比べ少なくなったことが原因。
2)母に甘えたい時期に十分にあまえられなかったことが原因。
※詳しくは「母子分離不安」でググってくださいね。
うちの場合は、1)は違う。保育園に0歳から年長までいて、朝7時半から20時までという長時間離れていた(これもどうかとおもうが。)
ということは2)。いやこれそのまんまです。
保育園に0歳から年長まで朝7時半から20時までいれられてたら、そら甘えれてないww
保育園児の時は、それが普通・それが当たり前として生まれてきたからずっとその生活だったから息子は気づかなかっただけである。
小学校にあがり、お友達は学校が終わると家に帰って「母」が待っている子がいる。学童へいっても、17時とか18時とかに家の人が迎えにくる。
「あれ、ぼく、ぼくの家、ほかとちがう。。」
同じような家庭の子もいるだろうけど、そうじゃない家もあるってことに気づいたんだと思う。
はじめての学校生活は疲れる。何事も知らないことばかり。加えて同じ保育園育ちの子が同じクラスにいないw(これは悲運)。疲れる。疲れるとは本人は感じていないがなにかしんどいっていうか、「ママ!!!!」ってなるのは当然だったんだ。
お友達?(まだそんな慣れてないけど)は帰ったらママがいる。ママと宿題をする。おやつがある。それがない。ママに会いたい。ママのそばにいたい。会社行かないで!と、4月から憧れ(?と言われて育った)の小学生になったものの、5月の運動会に向けてなんかがんばらされて(でも結局運動会は発熱して参加してない)、おちついて、6月がんばって、でもともだちってできてない。
今日友達できた?ってきいても、ううんっていう。
クラスの子と遊んだの?ってきいても、たぶんという。遊んだような遊んでないような。絡んだような絡んでないような。
保育園での友達は、家族のようなもので、友達が新しくできるという感覚も小1にはわからず、絡んだ子はいても、名前は知らないっていう状態がつづき、不安が募り、7月に爆発したんだとおもう。
それまで、スーパーで駄々こねたり、お菓子食べたいって駄々こねたりしたことが一切なく、なんて育てやすいんだと思っていた。反抗したことがなかった。
この7月の爆発が、彼の初めての主張だった。「学校行きたくない」。
だからこそ、「行きなさい!」と強要することができず、「なにかあったのか」ととらえたというところもある。
また、母子分離不安の対処法として
1)十分に甘えさせる
2)スキンシップをとる
3)十分かまってあげる
4)しかったりしない
5)大好きと伝える
6)話をよくきく
とあった。
どれもやってるつもりだった。正直私は息子が大好きだ。なにかあればぎゅうして抱きしめている。お姉ちゃんが嫉妬する毎日だ。
だからこそ、一緒にいる時間が足りないんだと感じた。
退職もありだなと常に考えていた。
小1の2学期のイベント
だいたい週の半分は欠席。
行けても遅刻。そして、別室。教室はがんとして入らない。
気分のいいとき(まだましなとき?)は、なんとか母の願いを聞いて、学校に行ってくれる。ただしずっと私は横についている。
別室とは学校内にある「相談室」的なところ。ちょっと教室でいやなことがあったときなど、利用できるようになっている。ただし、スクールカウンセラーがきている日か学校相談員といわれる方がきている日に限る。
うちの場合は、私が常につきそっているので、スクールカウンセラーや相談員がいなくても、副校長先生の許可後に利用できていた。相談室がつかえないときは、応接室を借りるといういやもう重役対応w。
相談室では、もちろん息子は一言もしゃべらず、私が先生としゃべっている。
担任がくるとおびえ、お地蔵さんのような無表情になる。
相談員さんはとてもやさしく、おばあさんほどの年齢ではないが、私よりも年上。50歳くらいだろうか。やさしいので少しずつ心を開いてうなづくぐらいはするようになる。
宿題をやったり、プリントをやったり、図工の作品をやったりと、2,3時間ほどそこで過ごして帰るっていうことをつづけていた。
なかなか学校に行けない日は、相談員さんが家まで様子をうかがいにきてくれたりしていた。ほんとお疲れさまだ。。
小1ということもあり、学習は遅れるというレベルにはならない。なんせ簡単だから。。ひらがながおわってカタカナがはじまったくらいかな?
算数は足し算の繰り返し。息子は学力は高いらしく、授業を受けなくてもこれくらい簡単の様子。だからこそ、教室で授業を受けるということの意味がわからなかったのかもしれない。
小1の心の中は読むことができず、もちろん本人もわかってない。なにが嫌なのかわからないが、行きたくないのだ。母のそばがいいのだ。離れたくないのだ。
このころから、「母子分離不安なのでは」ということを誰だったか忘れたら言われ、
「母子分離不安っていう言葉があるんだ」と知った。
Googleで調べてみると、あてはまるあてはまる。
私側にも問題がありそうだし、周期サイクルがあるのもほんとそのままだったし。
母子分離不安については次の記事で書こうかな。
「不登校」が深刻化していった時期になりますね。
小1の2学期が始まった
小1の2学期がはじまりました。
2学期からはけろっと行くかなっていう淡い期待は崩れ、やはり「行かない!行きたくない!」の一点張り。
家をでる8時が近づくと、部屋に閉じこもり、布団をかぶり、返事をしない。
しゃべらない。
トイレに閉じこもったり、母のスマホを隠したりと、あの手この手で抵抗する。
私は怒るほうではないので、何かしら誘い文句をつけるが反応しない。
「お菓子かってあげるから」ではなびかないのだ。
「お菓子なんていらない、学校行く方がいや」という。
「学校までついてくから。」といっても、「すぐかえるでしょ」っていわれる。
そうなんだけど。仕事あるし。でもだんだんと”仕事あるし”と言ってられないくらい行かなくて、こりゃ学校行かせない虐待と思われるんじゃないかとかも思ってきたり。
毎朝、このやりとりで格闘し、8時過ぎには学校に電話連絡いれないといけないのだけれど、もちろん登校班の当番の方にもいけない旨を連絡しなければならないのだけれど、その電話することで「行かなくていい」「今すぐ行かなくていい」という悪知恵が働いていかないのでなかなか電話もできなかったり。
そうこうしてると学校から電話がかかってきて「こまってるんです。。」という。
当番の方からは、「こないのなら連絡してください」と言われる。
いや、いかないんじゃなくて、行かせたいんだけど、行ってくれなくて、もしかしたらまにあうかもって。。。って思うんですが、すみませんと謝る。
このころにはほんとうに頭皮がヒリヒリしてきて、わぁなんか薄毛になってきたなぁってわぁ。。。って感じだったのですが、これはもう円形脱毛が始まっていたのです笑。